私がどれほど自己肯定も自己受容もできずにいたか。
たとええどんなに自分を否定しようと肯定しようと、この体は生きようとしてきた。
自ら死を選んだり、過剰なストレスを抱え込んで強制終了にまで追い込んでもなんとか持ち堪えてきた。
そしてある日私の中からこんな声が聞こえた。
「もう痛い思いをするのは嫌なんだよ!痛くない生活がしたいんだ。痛みなく生きたい」
突然涙が溢れでて止まらなくなった。
痛みに強くなって麻痺してしまったために、痛んでいることにきづけなくなっていた。
あんなに苦しんでいたことを忘れようとして本当は痛いのに痛んでいる自分を見ようともしていなかった。
物心ついた頃から不快や痛みばかり感じていたと思う。
だから周りの人たちの手や気持ちを煩わせてきただろう。
外部から加えられたものもあるけど、ほとんどは原因不明の痛みや不快感だった。
子供なりに、無意識に、その痛みから逃れたくてどうすればいいのかもがいていたと思う。
そして出てきた疑問がこれだ。
「なんで生まれてきたんだろう」
正しくは「なんで生まれてきてしまったのだろう」
これはそもそも仕組みに対する謎でもあって、医学的な範疇の意味ではなかった。
「何のために生まれて死んでいくのか」
は10歳にもならない頃からの私の最大の疑問になった。
アンパンマンか!?
ちなみにアンパンマンを知ったのは大人になってからなので、私の疑問はアンパンマンからの影響ではない。
切迫早産で1200gの私が生きるという大きな賭けに出たのは何の為なのだろう?
西洋医学では痛みの原因や不快の理由にまったく答えが出ないし正常そのもの。
明らかに発熱でもしない限り医者にかかれる機会はなかった。
子供なりに不快で仕方がない私の愛読書は家庭の医学。
体の仕組みがある程度わかった。
しかし家庭の医学では、そもそもなぜ生死が存在しているのか仕組みや魂の事までは書かれていない。
魂の存在や輪廻について納得のいく答えを出してくれる人もいない。
(この頃から納得のいかないことを言う宗教関係者にくってかかる癖が・・・)
しょうがないので上野国立博物館に入り浸り、宇宙の誕生から人間の進化から見て回る。
小さい頃から好きだったミイラのコーナーで大概は時間を使ってしまうのだけど。
そんな子供だから、おかげさまで自分の身体からどうすれば不快を取り除けるかについて自然と東洋医学や自然療法、気功や目に見えないものの世界に惹かれていった。
それが人によく言われる「膨大な知識」とか「何でも知ってる」「聞けば必ず答えが返ってくる」と思われるものの源泉なのだと思う。
そして答えは出ないまま歳を重ね、やがて痛みに耐えきれなくなっていった学生時代。
自虐的になる事で痛みを感じないで済む生き方を選んだ。
無意識に痛みをもっと痛くすれば麻痺して感じなくなる方法を知っていたかのように。
『自分に罰を与えれば、人が自分に罰を与えることを許せば、やがて痛みは感じなくなる』
虐待やいじめ、犯罪被害にあっても泣き寝入りする、助けを呼ばない、誤解されても自分の正当性を主張しない、自分が我慢すればいい・・・そんな感じで。
しかし、そもそもなぜ『自分に罰を与える』という言葉がでてきたのだろう?
やがて耐えきれなくなって、世界を壊してしまいたいほど人間も世界も大嫌いになっていった。
その根底には『自分の存在が許せない』ということがあるからだ。
『許し』が心からのものではなく逃げだった時、それはやがて破壊的力になってしまう。
「なんで生まれてきたんだろう。なんで生きなくちゃいけないんだろう」
その疑問は、魂からの「違う(見るべきところは)そこじゃない」の訴えだったのだと思う。
深く根付いた『壮大な罪悪感と自己否定、存在の無価値観』が自分を痛め続けている。
恐らくは産まれる前から、自我が目覚める前から、刷り込まれたか?
過去生とか、あるいは魂が企画書作成時にデフォルトで設定したか(笑)
私にとってまさに「見えざる脅威」「忍び寄る危険」The Phantom Menace!
「生きているだけで価値がある」という言葉の裏で、そう言わなければ生きていけない自分がいた。
今でこそ気づけるし、感じ取れるし理解もしているけれど、そうなるまでは《これ》が自虐的・破壊的な方へ向かわせていたなんてことは知る由もなく。
それの出どころはおいといて、 まず肝心なのはそれが自分の中に《ある》ということを認識することだ。
カオス(混沌)もディスオーダー(無秩序)もデカダンス(退廃)も嫌いじゃない。
だけどそれは蚊帳の外から、ある種の「芸術」として楽しむことはできる。
あるいは宇宙の最初はそのような状態から始まったような気がする。
だがしかし、現実的に身の上に起こるのは命がいくつあっても足りない。
誰だって避けたいだろう。
では自分が自分にしているのだとしたらどうか?
あなおそろしや。
産まれる前からそれをしていたのだとしたら、
概ねそれは魂の方に何か訳があってのことだと思う。
果たしてそれはなんだろう?
もう一度。 出どころはともかく、まず自分の中にそれがあるのを認識することが入り口なのだ。
人は誰しもこういう見えざる脅威を抱えて生きていて、ある日それに気づいてざわざわする。
しかしこの見えざる脅威というのは、使い方次第で大いなる強み・才能にもなるから、それは知っていて欲しい。そういうものなのだと。
そしてさらに、その次の段階がある。そしてその次の段階・・・と。手前の問題からどんどんその先の問題へと進んでいく。根底に流れているテーマ(本流)は変わらない。
再び一周回って違うレイヤーで同じテーマだがもうちょっと扱いが大きいそれと再会する。
それを繰り返す。すると逆にも深掘りすることが起きてくる。
深掘りすればするほど、自分の顕在意識、潜在意識、無意識、集合意識、過去生・・・という壮大な中に入っていく・・・すると魂とこの問題の関係性も次第と感じられるようになってくる。
こうして真の出どころまで掘り下げていくのを『地獄に骨を拾いにいく』行為と私は呼んでいる
私の中のファントム・メナスはこうして幼い頃から時間をかけて深く深く掘り下げて今非常に深い魂のレイヤーに到達して、物理的も見えない、その見えざる脅威を深掘りしていったらかなり深〜いところまでいけてしまった。
そこまで深掘りしなくてすむ問題ならそこまでいかなかっただろう。
ところで今日5月4日はスター・ウォーズの日。だからか、こんなことを考えたのは!(笑)
(・・・・・オタクな私の勝手な考察)後にダース・ベイダーとなるアナキン・スカイウォーカーは強烈な力(フォース)を持っていたが、最初は奴隷の子で自己顕示欲と正義感が強い男の子だった。
まだ何も知らない。自分のことすらわからないアナキンはやがてジェダイの道へと入っていく。
光が強ければ闇も強い。それがバランスというもの。
しかし強いだけに危うい諸刃の剣。
ヨーダはそれをよくわかっていてアナキンがジェダイになることに難色を示したのだけれど。
一方でヨーダはこれもわかっていた。これは抗えないフォースの導きなのだと。
アナキンは知らなかった。知るよしもなかった。
自分の中に、この宇宙の秩序(バランス)を握る未知のパワーがあることを。
そして、母(世界)を深く愛しているということと同時に、母(世界)を救えない罪悪感や奴隷に生まれたという無力感があることも。
ファントム・メナスは音もなく闇の世界へアナキンを引きずり込もうとしていた。
May the 4th be with you….
EP2つづく😱?